近畿ブラ歩き

近畿の名刹、名所、催しを見聞するブログ

令和3年7月27日二条城界隈ブラ歩き 徳川亜流の屋敷跡が橋本左内寓居横に在った

橋本左内の寓居跡の延長戦上に越前松平氏藩邸跡が続いており、ソックリ其の地を今の所有者が買い取ってホテルと成って居ます。

 

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此の福井藩の殿様は、松平春嶽と呼ばれる君主でして、薩摩の島津斉彬と好を通じ革命派と旗頭の一人として幕政に参与した。

其れ故に彼の元には、親藩外様の垣根を越えて春嶽を慕って多くの人材が集まって来るのです。

彼の坂本龍馬すら春嶽の懐に入り、神戸海軍総連所の資金を無心に訪れ、春嶽は大度を示して資金を提供し、其の後龍馬とは好を通じたと後年、色々と本などで紹介されて居ます。

福井藩の藩祖結城秀康は、徳川家康の次男に生まれ、一度豊臣秀吉の養子(人質)に召され、其の後秀吉は自分の身内から養子を募ったので結城氏に養子に出され、家康からも冷遇された。

家康が、徳川の姓を名乗るのは、将軍家秀忠と3人の末弟(義直・頼宣・頼房で後の徳川御三家)のみ徳川姓を名乗る事を取り決め、其れ以外は親藩の松平姓を名乗る事を取り決めた。

例外も居られ、秀忠の非嫡出子保科正之は表に出せない子共で本妻の手前泣く泣く他家に追いやった子供なので徳川姓を名乗る事が許されなかった。

唯、春嶽の出自は御三家の亜流で次男以下の出自だったので養子に遣られて越前松平家を継ぐ事と為った。

 

次回の投稿が最後です。

次回は、ブラ歩きも是れで終えて太秦で昼食を摂る為移動しました。

昼食の内容を投稿します。