近畿ブラ歩き

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囲碁七冠王二十六世本因坊文祐 偉業を成す

昨日、職場で昼食休憩中に新聞に目を通していると、あのプロ囲碁棋士七冠王井山裕太が自分が有しているタイトル本因坊位(毎日新聞主催)を防衛し、十連覇の大偉業を達成した。

此れは、囲碁界では趙治勲二十五世本因坊に次いで史上二人目の快挙で、囲碁界では一つのタイトルを連続で十回連続獲得防衛すれば現役で獲得したタイトル名を名乗る事が明文化されており、勿論獲得したのが本因坊位なので名誉永世称号を誰幅かる事なく允許されて段位以外の肩書きで呼ばれる特別な存在と成ります。

先人の趙治勲本因坊を連続5期獲得した時点で引退後二十五世本因坊を名乗る資格を与えられており、防衛回数を伸ばして通算11期・連続10期に達したので現役で家元の名前を継ぐ二十五世本因坊を名乗る事が許され、先日十連覇を達成した井山裕太も前例に基づいて二十六世本因坊を允許されます。

現役で名誉○○、永世○○と呼ばれると、呼ばれた本人も大業を成した事を肌で感じられると思います。

 

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終局後の記者インタビューに答えているポーズでして、両手を示して十連覇の十を表現しています。

抑も本因坊というタイトルは、何やと言う疑問の声が上がりますが、本因坊とは江戸時代にお城将棋の家元の名前でして、以後家元が四家有って本因坊家・井上家・安井家・林家の四家から構成され、其の中の本因坊家が一番名前が知られております。

 

 1578年、織田信長は上洛したとき、囲碁の名手として聞こえていた若き日蓮宗僧侶の日海(にっかい)を引見し、 1582年、日海は本能寺の変の前夜、信長の御前で日蓮宗僧侶の利玄と対局したと伝えられています。
 ところが、めずらしい囲碁の形(=三コウ)ができ、無勝負となったということです。
 三コウを不吉の前兆とするのはこの話からです。

 豊臣秀吉は本能寺で信長を攻めた明智光秀を討ち、1585年、関白となり治安の回復を待って日海をよびよせます。1585年、1588年に、秀吉が今でいう全国大会を催し御前試合を行い、日海がどちらも優勝しました。

 1587年、日海は駿河に入り徳川家康と碁を連日連夜打った記録があります。
 1588年、秀吉は日海に碁の役職(=官賜碁所)を与えました。

 

御城碁

1603年、徳川家康征夷大将軍となったとき、日海がお祝いに参上して、家康と五子で対局をしています。
 後に家康の指示で日海は寂光寺を弟の日栄に譲り、隠居して「本因坊算砂」と名のり「名人碁所(めいじんごどころ)」に任ぜられました。
 1612年、幕府は本因坊算砂らに俸禄を与え、プロの棋士が誕生がしました。

 そして、1626年には御城碁(おしろご)がはじまります。
 それ以来、囲碁は日本の国技として発展していくことになります。
 御城碁は毎年1回江戸城で打たれ、徳川吉宗の時代には(=1716年から)家康の命日にちなんで、毎年11月17日と対局日も決められました。
 1861年までに全部で530局ほど対局されました。

 

この様にして本因坊家が世に名前が知られ、囲碁界発展の為に本因坊家の名籍を大業を成した者に名を継がせ、永く其の業績を讃えて一代限りの名籍号を名乗る事が允許した。

二十一世までが本因坊家の名籍で、二十二世以降は実力で五連覇したら引退後名籍を名乗らせると明文化されて、今までに5人の永世本因坊が誕生し、其の内の2人(25世趙治勲・26世井山裕太)が現役で永世本因坊を名乗る事が許されました。

余談ですが、もう一家有名な囲碁棋士を出した家が在り、天文を司る特殊な才能を見出した渋川春海こと井上算哲(井上家次男),冲方丁の原作「天地明察」の主人公でして囲碁よりも数学に興味を持ち、最後は現代の数学基準の推移に達して天文の現象まで数字で予測するに至り、天文方公家土御門家(安倍晴明が祖)の後押しを得て、日食の解明に尽力した。

 

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井山裕太が十連覇を達成した本因坊戦の対局相手が、度々井山からタイトルを奪取して七冠の牙城を崩した芝野虎丸王座が七番勝負の第4局まで3勝1敗で本因坊位奪取目前でリードしましたが、其の後井山裕太が第5局を皮切りに3連勝して4勝3敗で大逆転防衛を果たして10度目の本因坊の座に就き、十連覇の大偉業を達成して二十六世本因坊文祐の名籍を名乗る事を隠居されました。

是れを将棋に置き換えると、十連覇した棋士は過去に2人居ましたが、十連覇した時点で現役で名乗る事を将棋連盟は隠居せず、棋士が棋力が衰えて晩年に名乗る事を許した事例が在り、大山康晴氏と中原誠氏の二人です。

前者の大山康晴氏は全てのタイトルを中原氏から奪われ、其の時点で将棋連盟は肩書きに窮して敢えて現役で十五世名人の称号を名乗らす事を許した経緯が過去に有り、中原氏も脳卆中を患う前から永世十段を名乗る事を許し、大病後現役の棋士に戻る事が出来なくなったので引退扱いして有する五つの永世称号を還暦前に名乗る事を許した。

羽生善治氏は、八つの永世称号を有していますが、只今無冠で将棋連盟から打診があったが、現役なので九段の肩書きで現役を続行すると返答した経緯で、現在も無冠でタダの九段位の肩書きで対局を続けています。