近畿ブラ歩き

近畿の名刹、名所、催しを見聞するブログ

令和3年7月27日二条城界隈ブラ歩き 聚楽第の名残

菓子司の親父さんのアドバイス通り、一旦堀川通まで戻り、最短に迷わずに行ける最短?ルートに踏み込もうとしたら、曲がった一つ目の辻に思わぬ物を発見しました。

 

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(ノ゚ο゚)ノ オオォォォ-凄い所に迷い出たよ!

歴史に一過言お持ちの方なら、是れが何を意味するか一目見たら解るよ。

 

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傍まで近付くと、この石碑が建って居る場所は、豊臣政権下五大老五奉行の一人で越後八十万石の領地から秀吉の命で東北の地に楔を打ち込む様に伊達等新興勢力に睨みを利かせる男会津百二十万石の太守上杉権中納言景勝の執政(主席家老)直江山城守兼続の屋敷跡です。

この直江兼続も秀吉から認められ朝廷から官位(山城守)を受け、景勝の領地百二十万石の四分の一の大封三十万石の所領を頂戴する大大名でも有り、秀吉から直接の声掛りです。

此の屋敷跡は、聚楽第から東に位置し何時でも秀吉の命が降れば駆けつける位置に居ます。

兼続の盟友は、清濁併せ持つ切れ者石田治部少輔三成で、二人して家康を会津盆地に誘い出して西と東から挟み撃ちにして家康を討ち果たす算段を立てて居ましたが、其処は役者が一枚上で其の姦計を見破り、伊達政宗を上杉の抑えに当てて返す刀で上方へ打って出て、東軍の戦機を試すかの様に詰問状を突き付けて福島正則を焚き付けて猪突猛進させて決戦場を関ヶ原まで誘き寄せた。

其の場所は、東軍には戦略的は作戦負けでどう足掻いても勝ち目が無い様に見えたが、其処は狸親父の真骨頂で西軍要の大名を調略して勝ちを拾いました。

三成は負けて捉えられ、三条川原で斬首刑に処され、首は民衆に晒された。

三成に加担した上杉は、所領の四分の三を失い、兼続の所領をそっくり上杉に与えられた。

景勝も死ぬまで内心兼続に頭は上がらなかったと思います。

次回の投稿は、この街中にこの様な場所も有るのだと関心しました或る場所を投稿します。