近畿ブラ歩き

近畿の名刹、名所、催しを見聞するブログ

令和3年5月26日阪急沿線西京極駅から西院駅周辺をブラ歩き 西院春日神社

太秦南側の古墳を訪れようとして三菱場工業の工場地辺りまで来たが工場に道を阻まれ、致し方なくコース変更を行って京都外国語大学の敷地境界線を潜り抜けて西院のイオンショッピングセンターへ訪れ、最後に阪急西院駅から帰路に着こうとして駅近辺まで訪れて神社へ参詣しました。

表題の通り、奈良春日大社から御霊を勧請し、江戸中期の朝廷(当時の天皇の求めで)の要請で藤原氏氏神をこの地へ引っ張ってきた経緯で此の地に神社が建立されたみたいです。

 

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西院春日神社の御祭神は、、遥か東の地に根ざす鹿島神宮から鹿の背に乗ってまほろばの都奈良へ訪れた武神建御雷神(たけみかづちのかみ)で、出雲の国の守護神大国主命から国譲りの儀に使者として遣わさた天津神の一柱で有名な神です。

 

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鳥居を潜る前に一礼し、中へ訪れてみると小ぢんまりした手水舎があり、薪能が出来る舞殿が控えており、従来舞殿が在るのだが其処も先に訪れた松尾大社三宮衣手神社と同じく床のない屋根だけの舞殿でした。

 

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此のお気にも小さな社が有り、末社として幾柱の神が祀られて居ます。

 

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還来大神と弁財天女が祀られて居ます。

弁天さんは、馴染みの在る七福神の一柱の神としてよく知られていますが還来の神とは、下記の由来で今も西院では信仰されて神さんです。

 

西院春日神社の境内にある神社。祭神は淳和天皇の皇后正子と藤原旅子、橘嘉智子貞観十六年(八七四)四月十九日、皇后の御殿が火災にみまわれた折、皇后は逃げ惑う女官たちに対して毅然とし、自ら避難のご指示をされました。女官たちは、皇后のお言葉に心を鎮め、仮御殿に避難をしたところ皇后の御殿のみが焼失をまぬがれ、四月二十七日、皇后は無事晴れやかにお還りになりました。後世、皇后のご功績をたたえて、元にもどり還り来る「還来の大神」として崇められ、旅行・道中の安全守護とし、現在でも天皇皇后両陛下の海外行幸啓には両陛下や供奉員の安全を祈願されます。

 

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拝殿で拝礼を済ませると、急いで社務所へ向かい御朱印授与で呼び鈴を押して暫く待つと艶やかな髪飾りを前髪に装飾した見た目25歳から30代前半の芸子さんみたいな細面のべっぴんさんと表現出来る巫女さんが対応して戴いた。

御朱印帳を受け取ると気に為っていた髪飾りの事を巫女さんに然りげ無く尋ねると、巫女がこう答えました。

「藤原の藤の花です」とあっさり答えられ、此方もあっけらかんとしました。(笑)

話は少し脱線しますが、今は藤原の姓は日本中津々裏々有触れた姓だが、元は経った一つしか無かった特別な氏姓でして、氏姓の起こりは聖徳太子以降の時代に遡り、時の天皇は女帝で補佐をしているの帝の甥でした。

其の甥が、現在の日本まで藤原姓創始の張本人でして、名乗る事を許されたのが初代藤原氏の開祖中臣鎌足で大織冠を授けられる中大兄皇子(後の天智天皇)の功臣です。

即ち、藤原姓を授けたのが此の中大兄皇子元い天智天皇が、中臣鎌足が臨終の床に臥せっている時に行幸して枕元で長年の功に報いて一代?氏姓藤原を与えた事に撚り、朝廷で絶大な権勢をを誇る大貴族として押し上げた開祖ですが、其の遺徳を受け継いで更に磐石な物として藤原氏の土台を築いたのが嫡子の不比等です。

此の二人の親子無しで今の藤原氏を語る事が出来ません。

古代中華第三王朝を商(後に殷と呼ばれる)の開祖湯王(成湯=成すべきことを為して功を得た湯王)が臨終間際に王族と功臣を集め滔々として言い残した言葉が、「開基の功より守成の勇」と言う遺訓を残してあの世に旅立った湯王。

何が言いたいと申しますと、何事も最初に事を起こして道を開く事は難しいが、其の成功を子々孫々に伝えて受け継がせる事は更に以っと難しいと湯王が臨終に臨んで家族(王族)と臣下に遺訓として残しました。

其れと同じ事を藤原氏創始者と二代目が政敵蘇我入鹿を暗殺して返り血を体に浴び、手を血に染めた鎌足

目立つ事を極力避けて嫡子不比等は、直接を手を降さずに謀略と奸計を用いて政敵を葬り去って地盤を固めて磐石な物にし、決して目立たずにNo.2に徹して影で政局を動かしたのが藤原氏創始者と継承者の功で、今の藤原氏の繁栄が有ります。

且つ権力の影に影響力を以て数多くの邪魔者の政敵を葬って追随を許さなかったのが藤原氏で、血塗られた一族です。

其の藤原氏武家平氏源氏の台頭で力が削がれ、清盛が朝廷を牛耳る原因と成った二つの大乱で公家は公家同士で抗争し武家武家で身内で血で血を洗う争いで地位を確立して公家は没落して行った。

 

その時の張本人悪左府藤原頼長の有り様が正に悪辣で、其の情け容赦内遣様が全て自分に跳ね返り墓穴を掘って酷い最後を迎え、其の事で藤原氏藤原氏姓を名乗らずに別姓を名乗る選択を迫られた。

其れが後の近衛氏(が本家、分家が鷹司)と九条氏(が本家、分家が二条家一条家)に分かれ、五摂家(摂政関白の家柄)が極位極官を極めた藤原家本流として隠然として朝廷で発言力を残している氏族(北家流藤原氏)です。

何にしろ血塗られた氏族で疑う事間違いなしで、自覚がないのなら最低最悪の極みの一族です。

 

是れにて全ての工程を終えて、阪急西院駅から乗車して帰路に着きました。

暫くはネタがないのでマスコミで得た情報に基づいて、自分なりに意見感想を交えて投稿して参りますので悪しからず。