建礼門まで御所をほぼ1周して蛤御門の手前まで遣ってきました。
其処まで至ると枝を張った1本の椋の木が立っており、其の前まで近付くと鑑札が建てられており、謂れを目で追って読み解くと、其の場所辺りまで賊軍が御所まで迫ったと記述しております。
京都に於いての朝廷での主導権争いに遅れを取った長州藩が、会津藩追い落としを力ずくで行使して蛤御門から軍勢を以て押し入ろうとし、蛤御門で迎え撃つ会津藩・福井藩・桑名藩・薩摩藩の迎撃に遭い一進一退を繰り広げたが力尽き、長州藩士の多くが討ち死にし、又は自刃する者も出て大敗を喫した。
自刃した者の中には松下村塾双璧の一人久坂玄瑞も禁門の変に加わって壮絶な最後を遂げて居ます。
此の椋の木まで長州藩士で迎撃隊総督来島又兵衛が,建礼門辺りまで押し寄せたが会津藩と薩摩藩の指揮を執った西郷吉之助に押し遣られて敗勢となり、一矢報いんと騎馬で突き進んだ来島又兵衛が鉄砲隊の射撃に遭って壮絶な戦死を椋の木辺りで遂げたと観察に記されて居ます。
丁度此の辺が、御所の建礼門が直ぐ其処に在る事が垣間見えて居ます。
次回の投稿は、激しい戦闘が遭った蛤御門を投稿します。