令和2年11月16日紀州街道を通って住吉から萩ノ茶屋を徘徊 一寸法師ゆかりの安立町
昆虫食自販機から少し東進し、紀州街道を通って堺市と大阪市の境界線と成る大和川を渡ろうと大和橋を走行して大阪市に入りました。
大和川を超えて下り坂を自転車で走行して住吉大社の手前に在る安立商店が眼前に広がり、商店街の入口を確認すると以前は無かった文言が有りました。
*・'(*゚▽゚*)'・*ほんま!??かいなと疑い、商店街を自転車で走行して商店街内に何か謂れの確証が有るかと目を隈なくして見回しましたが確認出来なかった。
中通はこの通り、シャッターが閉じられた店舗が少なく、短いながらも地元に密着した商店街でした。
余りパシャパシャとカメラを向けて映像を撮るのは吝かでは無いので、此処でカメラを収め、一旦を通りをスルーして住吉大社側に通じる出口まで出ました。
商店街の反対側入口に回って、入口天井を見上げると先程は案内の文言が記されていたが、今度は一寸法師の絵が描かれて居ました。
後日、真意が解らなかったのでWEBで検索したら、商店街紹介 大阪府住之江区の商店街 安立住之江商店会と言うサイトが綺麗に映像を乗せてブログとして纏めて居ましたので確認出来ました。
サイトの一文をお借りして来ましたので一読して下さい。
また、ここ安立(あんりゅう)は、『一寸法師ゆかりの地』でもあります。「子宝に恵まれない夫婦が、安立からほど近い住吉大社に願掛けをしたところ、一寸法師を授かった。一寸法師はお椀の舟で川を上り、京の都へ。お姫さまを襲った鬼を、針の刀で退治し、打ち出の小槌で大人に変身して姫と結ばれるという物語」
江戸時代、針の製造販売は安立の地場産業だったともいわれており、
一寸の腰にさしていたのが、安立(あんりゅう)で作った針だったというオチ付です。
針を扱う行商人たちが、一寸法師の物語を伝えながら、安立の針を全国へ広めて
いたのかと思うと、またこれも江戸の商人達の心を感じます
又、この地区は万葉集に編纂された一句が、安立町に松原公園の事に触れられ、下記の様に記されて居ます。
安立町の紀州街道沿いに「霰(あられ)松原公園」があります。
そこには、「霰打つ あられ松原 すみのえの 弟日(おとひ)おとめと 見れど飽かぬかも」
(万葉集巻一)と描かれた歌碑があります。
この歌は、あられ松原を訪れた長皇子(ながのみこ)の詠んだ一首です。
長皇子は天武天皇の皇子で、
「あられの降るあられ松原を、住吉の弟日娘さんと一緒に見れば飽きないものだなあ。」
という詩なのですが、この「あられ松原」は現在の安立(あんりゅう)と言われています。
現在ではこのあたりには松の一本も見当たりませんが、
平安時代は、この安立の土地から堺まで、白い砂浜と松の緑の風景が続き、
四季を通じて素晴らしい場所だったようです。