近畿ブラ歩き

近畿の名刹、名所、催しを見聞するブログ

令和2年3月13日堺BURABURA 大仙公園内 Ⅵ 平和の塔

入口まで戻ると直ぐ傍にバス停が在り、入口横に在るモニュメントとプレートが敷かれて居ます。

 

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此のモニュメントの直線上に、プレートに記された平和の塔が聳え建って居ます。

 

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今いる場所から聳え建って居る塔の傍まで、自転車を漕いで入り口辺りまで近付きました。

 

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自転車を近くに駐輪し、早速平和の塔の入口まで行きますと、「堺市平和塔」と看板を入口軒下に掲げており、中をガラス越しに覗こうとすると或物が目に留まりました。

 

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何だ是れは?

 

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入口正面から、中を覗くとあれの真意が解りました。

 

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在のプレート通りに受け取れば、平和の塔の内部は祭壇を設けた礼拝堂に成っているのですね!

 

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中は鎮魂の塔なのです。

堺市が合併する前の堺市外の町村の戦没者名簿が屏風仕立てで記されて居り、大阪・堺大空襲で落名された戦没者の名簿なのです。

親父から今私が住んでいる辺りの川に、焼夷弾で焼け出されて大火傷負った市民が一斉に川に飛び込んで火傷を癒そうと其の場所で被い重なって戦死者の山が築かれて居たと話に聞いていたが、是れは是れでまた別の場所で供養塔が設けられていますが、此の場所の供養塔は旧堺市外の住民達の名簿で、昭和三十年初頭辺りに市外の町村は合併して今の堺市と成ったので、時を経て場所を設定して供養塔を設けられたのだと理解しました。

立ち去れる前に、亡き戦没者に敬意を込めて一礼して合掌して塔を立ち去りました。

是れにて投稿は終わりますが、今度は尼崎辺りを徘徊して昭和の名残を見届けて尼崎市内の神社巡りを行うこと計画して居ます。