一旦、来た道を戻って乾門の延長線上に目を遣って今度は反対側の方へ回りました。
此方の方角が、乾門に直結に面した北辺の通りです。
此の角が猿が辻と謂れ,鬼門丑寅の方角の反対側の裏鬼門の当たり、未申の方角に日吉大社の御神猿の置いて魔除け封じとして居ます。
県道101号線に面した側の通りにが乾門から真っ直ぐ東に向かった所の御所の角に猿が辻が在ります。
此の凹んだ塀の軒下に御神猿の彫り物が置かれて鬼門封じの魔除けとして祀られて居ます。
概要
北東(丑寅)は鬼門の方位であり、十二支においてはその反対が未申であることから、猿の木像を鬼門除けとして築地塀の軒下に安置して祀ったのが通称の由来であるという説のほか、御所を守護する日吉神社の神使が猿だったことから「猿ヶ辻」と呼ばれるようになったとする記述もある[1]。
「猿ヶ辻」の部分の塀は、敷地内へへこんだ形に造られていることから、「御所が鬼門を避けている」「除けている」と考えられ、それが後世まで鬼門を除ける手法とされてきた。
現代でも人々は縁起を担いで鬼門とされる住宅の北東部分に魔除けとして柊や南天、万年青を植えたり、鬼門や裏鬼門(南西)から水回りや玄関を避けて家作りをするなど、鬼門を恐れた家相を重視する社会通念は根強く残っており[2]、東京芸術大学、東京工業大学名誉教授 清家清の著書『現代の家相』において「家相の教え通りに凹ませている」と述べている[3]。
事実、京都のNPO法人が2015年に行った調査では、京都市内中心部だけでも、ビルや店舗、一般住宅など約1100か所に、四角く囲って玉砂利を敷いたり、柊や南天を植えたりした鬼門除けがあることが判明している[2]。
御所の内部
家相において鬼門を恐れる長年の言い伝えは、すべて京都御所の「猿ヶ辻」が基になっているが、京都御所の内部には鬼の間が存在していた。鬼の間は、御所の仁寿殿の西、後涼殿の東にある清涼殿南西隅の一室であり、すなわち裏鬼門の位置にある。康保元年(964年)、大和絵師の飛鳥部常則がこの部屋に鬼を退治する白沢王(はかたおう)像を描いたとされている[4]。白沢王は一人で剣を掲げて鬼を追う勇姿で描かれ、古代インドの波羅奈国の王で、鬼を捕らえた剛勇の武将であると、順徳天皇が著した『禁秘抄』を解釈した[4]『禁秘抄講義』3巻上(関根正直著)に記述されている。 現在の建物(鬼の間)に、白澤王の絵は描かれていない[5]。なお、江戸時代中期の随筆『夏山雑談』には、白沢王は李の将軍、「白澤王」としても記されている[5]。
これについて、家相を研究する小池康寿は著書『日本人なら知っておきたい正しい家相の本』において、京都御所や天皇家が鬼の災い、神の祟り(自然災害、火災、疫病の蔓延)を恐れて築地塀を凹ませていたとするより、庶民に災厄が及ばぬように皇室が一手に凹みで受けとめ、御所内部の清涼殿鬼の間に導いて鬼を切り倒すことで世の安泰を願っていたと解釈した方が自然であると論じ[5]、外から見た御所の塀の凹みのみに注目した庶民の単純な考えが鬼門除けの発想に繋がったと考えるのが理に適うとしている[6]。なお現在でも、皇居の鬼の間は一般公開されておらず[5]、多くの家相学者や民俗学者の家相文献には、鬼の間の存在に関する記述は見られない[7]。
小池は、鬼門方位を除けること(鬼門除け)が「家相の教え通り」[3]であるならば、一般庶民の住まいにも南西に「鬼の間」を設けなければ家相は成立しないと述べている[6]。
姉小路公知暗殺の地
1863年(文久3年)、尊攘派公家の姉小路公知がこの「猿ヶ辻」付近で斬殺された(朔平門外の変)ことでも知られている。
御所の内でも曰く付きの場所でも在りますが、この塀の造りを或る場所でも何度も目にした事があります。
其の或る場所とは、世界文化遺産下鴨神社の敷地内に在る河合神社の平が鬼門封じの作りに成って居り、其の場所が映画と時代劇のロケ地とし良く使われて居ます。
此の下鴨神社も「京都いけずな旅」のロケ地にも成っていますが、今回は割愛させて頂きます。