四条通から面する各通りが幾筋も在り、お寺が在る寺町通を選んで此方へ伺いました。
実は此方の誓願寺は、
天智6年(667年)、天智天皇の勅願により奈良に創建。三論宗の寺院となるが、いつしか改宗し、法相宗の興福寺の所有となっていた。その後、誓願寺は法相宗の蔵俊僧都が法然上人に譲ったことにより、浄土宗の所属となる。そこに法然上人の弟子である西山上人証空が入り、自らが唱える西山義の教えを広め始め、浄土宗西山派が成立していく。後に弟子の立信(円空)が証空から受け継いだ誓願寺の他に、深草の地に真宗院を建立して、証空の教えの上に更に自らの考えをも取り入れて深草流の教えを確立し広めた。
天正19年(1591年)2月には、豊臣秀吉の命を受けて現在の新京極へ移転し、秀吉の側室であった京極竜子とその生家の京極家から広い敷地が与えられた。京極竜子は堂塔の再興にも尽力、木食応其の勧進もあり、慶長2年(1597年)3月11日には落慶法要が行われ、高野衆50人が参列したという。天明、弘化、元治年間に三度大火に罹り、さらに明治維新とそれに続く廃仏毀釈、明治5年(1872年)から始まった新京極通の整備で寺地を公収され境内は狭隘となったが、扇の塚のある寺として芸能関係にはよく知られた寺である。
明治9年(1876年)には誓願寺は浄土宗西山派の北本山となる。だが、大正8年(1919年)に浄土宗西山派はそれぞれの考えの違いから浄土宗西山光明寺派(戦後に西山浄土宗となる)、浄土宗西山禅林寺派、浄土宗西山深草派の三つに分裂してしまい、現在に至っている。
此方の史実以外でも、和泉式部縁のお寺で在り、又、大坂冬の陣で古田織部に匿われた豊臣秀頼の遺児国松と後に鎌倉の座主と成った女児(天秀尼)兄妹の身元が割れ、古田織部は家財没収の上で切腹を受け、幼い兄妹も裁きを受けて刑場の露と消えるところ、家康の孫娘千姫(天樹院)の命乞いを受けて妹天秀尼のみ助命され、兄国松は六条河原?で斬首刑を受けて誓願寺で御霊を弔われて居ます。
新西国巡礼の御朱印を拝受しました。
次の投稿は、織田信長縁の本能寺を投稿致します。